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2008年10月12日

2008年10月12日

高谷コラム「もう一人のコンデ・コマ」

ブラジリアン柔術の起源について、宣揚柔道のため世界を行脚したコンデ・コマこと前田光世が行き着いたブラジルの地でグレイシー一家と知り合い、指導した講道館柔道にあることは周知の通りである。

その後グレイシー柔術、さらにはブラジリアン柔術と形成されていったプロセスは、天真神楊流柔術から嘉納流柔術、講道館柔道へと至るそれに倣うかのようであり、日本柔術の流派展開としてはオーソドックスなものである。

が、それが地球の裏側であるブラジルにて、失伝することなく独自の継承発展がなされてきたことは、やはり奇跡と言わざるを得ない。

他の日本柔術流派でも海外展開しているものもある中で、講道館の積極性は群を抜くものがあるわけだが、その中でブラジルのような例は他に類を見ない。

ブラジル以外の国でも、例えばイギリスにおいても他流試合を重ねた一人の宣揚柔道使、つまりコンデ・コマのような男が存在した…。

20世紀初頭、イギリスのスポーツ界において忽然と一人の日本人が注目を浴びた。数年後に前田光世=コンデ・コマも訪れた同地で活躍したのは谷幸雄。

その小柄な体格からリトル・タニと呼ばれていた。

現在でも普通に入手可能な1999年刊「柔道大事典」(アテネ書房)によると、「谷幸雄」は神戸の不遷流・田辺又右衛門に師事した後、講道館にて修行。まずアメリカ、後に欧州へ渡る。

そこで前田光世らと共にレスラーやボクサーと戦う。

前田らが去った後もイギリスにて試合を重ね、全戦全勝。

「リトル・タニ」として日本人としては当時「アドミラル・トウゴウ」(日露戦争勝利時の東郷平八郎元帥)と並び称された。

1920年にロンドン武徳会を設立、イギリス柔道の父と仰がれた…といった内容の記述がある。

なお、当時の欧州各国では、講道館柔道であろうが、人々の口から表現されるそれは、「ジウジツ」であったという。(大正末期から昭和初期にかけて欧州で柔道普及に努めた石黒敬七八段の回想による。)

その綴りについてであるが、地域によりまた人により「ju-jitsu」「jiu-jutsu」「ju-jutsu」そして御馴染みの「jiu-jitsu」と、特に統一性はなかったようだ。

ただ、「呪術」とは混同しないよう注意されていた。

谷幸雄の著書には「The Art of Jujitsu」といったものがある。

資料や伝聞の多い前田光世に比して知られていない人物ではあるが、彼の戦いぶりや、何故イギリスではアレンジされない講道館柔道としての発展を果たしたのか…つまり「ブリティッシュ柔術」とならなかったのかを、次回は検証したいと思う。




谷幸雄の事跡について、初とも言える
詳細な論文(愛知大学・清水教授による)
が掲載された講道館機関紙「柔道」2004年9月号。




谷幸雄。彼が創設し現在でも活動を続ける
ロンドン「武道会」のウェブサイトより。