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2008年09月10日

高谷コラム「柔道界の分裂」Part.5

昭和63年、5年有余に渡る抗争が収束し、新たなる日本学生柔道連盟の発足、それに伴い新生・財団法人全日本柔道連盟がその船出を迎えたことは、前項までに紹介した。

現在の全日本柔道連盟ウェブサイトには、法人格取得が昭和63年6月8日であると記載されてはいるものの、分裂騒動のいきさつについては全くというほどふれられていない。

関係者にとってあまり振り返りたくない歴史であることは想像に難くないところだ。

さて、その年の6月25・26日にかけて「日本学生柔道連盟統一記念大会」が日本武道館において盛大におこなわれた。

全国からオープン参加の113大学が集ってのトーナメントであった。

学生柔道連盟主催大会としては、分裂期またそれ以前、そしてその後現在にいたるまで、常に地区予選を経ての開催である全国大会史上唯一の試みである。

その記念すべき現場に居合わせた大学1年生の筆者は、前項で振り返った大柔連主催の個人戦に比べ、これぞ学生柔道という華やかさに興奮を覚えていた。

現実はわが母校は一回戦敗退、しかも筆者は補欠に留まるという残念な状況ではあったが…。

同大会に名を連ねた主な選手としては、明治大学3年の小川直也・1年の吉田秀彦両選手が挙げられよう。

変わったところでは専修大学1年の高坂剛選手といったところ。

日本体育大学3年の古賀稔彦選手はエントリーされていなかった。

これは同年秋開催のソウルオリンピック71キロ級代表が決定していたためであろう。

この大会、準決勝で明治大学を破った天理大学が、決勝では東海大学を降して栄えある大学日本一に輝いた。
        
 *        *         *

このように「雨降って地固まる」ともいえる歴史を辿った柔道界。

現在のわが国におけるブラジリアン柔術界の状況に鑑みて筆者が願うことは、日本唯一の統括機関であるところの日本ブラジリアン柔術連盟(BJJFJ)が出来る限りの早い時期にしかるべき法人格を取得すること、そして同連盟が国際柔術界での発言権を強めることはもちろん、国内において真に柔術が民間に根付いた状況を構築していくことである。



「日本学生柔道連盟統一記念大会パンフレットより、
同大会のトーナメント表。
113校参加、1チーム7人の補欠5名登録のため、
1356人もの選手がエントリーされたことになる。




同大会が報じられた「近代柔道」昭和63年8月号。
ソウルオリンピック展望号でもあった。




ちなみに同号には、後に多くの柔術家が参考にしたであろう
柏崎克彦先生著「寝技で勝つ柔道」の原型ともいえる連載
「newaza of kashiwazaki」の第一回が掲載されている。




準決勝・天理大学対明治大学の対戦において
小川直也選手は絞めによる一本勝ちを収めたものの、
チームは惜敗。




同じく準決勝、明治大学1年の吉田秀彦選手
(当時は78キロ以下級)は体重115キロの選手に大外刈りで
有効を取られての敗戦。





高谷聡(こうたに・さとし)
パラエストラ吉祥寺・代表。
ブラジリアン柔術・黒帯、柔道四段。
BJJFJ公認B級審判員。
現CSF(コンバット・サブミッション・ファイティング)王者。
CSF王座は2007年6/1、ニュージーランド、オークランド、トラスト・スタジアムにて前王者、ニール・スウェイルスと戦い、これを延長戦の末にポイント判定で降し王座獲得。
だが王座獲得の後、防衛戦の予定はない。(2008年7月現在)
※その試合の詳細は2007年06月01日のこのブログのニュージーランド編を参照のこと。
☆ニュージーランド編はコチラ、画像はコチラ


★著者経歴
・昭和45年2月11日生まれ、38才(独身)
・昭和57年、12才で武道を始める。
・昭和59年、合気道初段。
・昭和61年、16才で柔道に転じ以降、高校・大学・実業団にて選手として出場。
・現在は母校の柔道部監督を務める。
・平成7年、柔道4段取得。
・実業団所属時代、鈴木道場サンボクラスに入門、初段を取得。
・平成9年、鈴木道場サンボクラスに出稽古の中井祐樹先生と知り合う。
・同年末に開設されたパラエストラ東京(当時パレストラ東京)に入門、ブラジリアン柔術を始める。
・平成13年、パラエストラ吉祥寺を設立。
・平成17年、ブラジリアン柔術の黒帯を取得。
・好きな女優は池脇千鶴、おニャン子クラブでは白石麻子が好きだった。


ファイターズショップブルテリア
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