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2011年05月15日

高谷コラム:悲劇の宰相

いわゆる東京裁判において、唯一の文官A級戦犯として絞首刑となった元首相・広田弘毅。

城山三郎の名作「落日燃ゆ」の主人公としても知られている「悲劇の宰相」である彼が、実は講道館柔道の強者であったことは一部ではよく知られていることである。

が、その実力が単なる「柔道をやっていた」というレベルにとどまらないことはさほど知られていないのではないだろうか。

広田は郷里福岡の中学校時代、民権から後には国権運動に力を注いだ政治結社・玄洋社の明道館道場で柔道を始めた。

当時から多くの優勝経験があったようだ。

上京し第一高等学校に入学してからは講道館に入門、勉学と同時に熱心に柔道修行に励んだ。

得意技は背負い投げと巴投げ。

講道館四天王の一人で「鬼」と呼ばれた横山作次郎からは「柔道の専門家としても充分にやっていける」と評価されていたという。

さて、柔道家としての広田弘毅の実像についていくつか挙げてみたい。

のちに寝技という分野において大輪の花を咲かすこととなる「高専柔道」、その始まりは明治31年に行われた一校対二高の対抗戦(二高の勝利)であったのだが、翌32年の第二回大会における広田の活躍が高専柔道関連の名著である湯本修治「闘魂」に記録されている。

「天下運動の覇王たる一高生の、空しく二高生に敗られしを聞き、嚇然として怒り、決然として怒り、遂に我軍に投ぜしなり」とされた切り札の投入であった。

勝ち抜き戦における大将から四番目・四将として登場した広田、戦況は互角で相手も四将であったが、ここを難なく巴投げで撃破。

巴投げを警戒する次の三将に対してもこれを背負い投げで破り、副将とは30分の戦いの末引き分け、一高勝利の立役者となった。

二段時には、後に十段となり柔道史にさん然とその名を残す佐村嘉一郎と学習院の柔道大会で対戦、佐村の左跳腰を巧みにさばいて右背負い投げで破ってみせた。

両者は講道館においてほぼ同期、同世代には前田光世もいる。

外交官を経て外務大臣・総理大臣を歴任した広田。

彼はその間、かつての好敵手・佐村らとともに講道館の評議員として名を連ねていた。

おそらくは講道館柔道のために有形無形の助力を差し伸べたことであろう。

近年、ブラジリアン柔術指導者の中にも政治に志すかたがおられるという。

いつの日かブラジリアン柔術の修行経験を持つ人物が国政の舞台に立つようなこともあるのだろうか。

それは間違いなく1アマチュア競技の普及・発展のためには大いに有益なことであろう。(敬称略)




宰相時代の広田弘毅




広田弘毅の生涯を描いた城山三郎のベストセラー「落日燃ゆ」。
まぎれもない名著であるが、政治家・広田弘毅を描く上で
あまりにも美化されているとの評価もある。





高谷聡(こうたに・さとし)
パラエストラ吉祥寺・代表。
ブラジリアン柔術・黒帯、柔道四段。
BJJFJ公認A級審判員。

現CSF(コンバット・サブミッション・ファイティング)王者。
CSF王座は2007年6/1、ニュージーランド、オークランド、トラスト・スタジアムにて前王者、ニール・スウェイルスと戦い、これを延長戦の末にポイント判定で降し王座獲得。
王座獲得の後、2年ぶりに王座防衛戦を行い、激戦の末に王座防衛を果たす。(2009年5月)
★CSF王座防衛戦の様子はコチラから!
★CSF王座獲得のの詳細は2007年06月01日のこのブログのニュージーランド編を参照のこと。
☆ニュージーランド編はコチラ、画像はコチラ

★著者経歴
・昭和45年2月11日生まれ、41才(独身)
・昭和57年、12才で武道を始める。
・昭和59年、合気道初段。
・昭和61年、16才で柔道に転じ以降、高校・大学・実業団にて選手として出場。
・現在は母校の柔道部監督を務める。
・平成7年、柔道4段取得。
・実業団所属時代、鈴木道場サンボクラスに入門、初段を取得。
・平成9年、鈴木道場サンボクラスに出稽古の中井祐樹先生と知り合う。
・同年末に開設されたパラエストラ東京(当時パレストラ東京)に入門、ブラジリアン柔術を始める。
・平成13年、パラエストラ吉祥寺を設立。
・平成17年、ブラジリアン柔術の黒帯を取得。
・好きな女優は池脇千鶴、おニャン子クラブでは白石麻子が好きだった。

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©Bull Terrier Fight Gear

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