2007年02月10日
btbrasil at 11:44 Permalink
はじめまして!
初めまして。
フリーライターの橋本です。
これから不定期でブラジルに関するニュースやコラム等を書かせていただくことになりました。よろしくお願いします。
私が初めてブラジルに行ったのは今から6年前の2001年のムンジアルでした。
当時はまだ今のように日本から選手が大挙して遠征することもなく、日本人選手全員を合計しても20人はいなかったように記憶してます。
そして現在と何よりも違うのはブラジルや柔術に関する情報がとても限られていたことでした。
現在ではブラジルで行われた大会結果やニュースがインターネットを通して瞬時に入手できますが、当時は格闘技雑誌の数ページもない柔術に関する記事をむさぼるように何度も何度も読み返していたものでした。
そしてそのまだ見ぬ柔術の地、ブラジルへの思いは募り、遂に初渡伯を決意したのです。2001年当時は本当に現地の情報が少なく、すでに当時からムンジアル遠征を何度も経験されていた中井先生にくっついて歩くので精一杯でしたが、リオの街はいたるところに柔術が溢れており、見るもの全てが新鮮でした。
現地ではリオの柔術密集地帯、コパカバーナに滞在したのですが、通りを歩けば数十メートルおきに柔術道場はあるわ、街角のジューススタンドには柔術選手のピンナ
ップやポスター、雑誌が置かれていたり、買い物にでかければ柔術関連のTシャツやグッズがあり、本当に大げさでなく街中いたるところで柔術を目にすることができ、「今、柔術の真っ只中にいる!」と一人興奮していたのを思い出します。
そして日本では見られない柔術グッズを見つけては買い漁り、帰りの荷物の運搬と、帰国してからのカードの支払いに苦労したのも今となってはいい思い出です。
でも私はムンジアルにただ観戦しに行ったのではありません。
なんと無謀にもムンジアルに出場するためでもあったのです。
99年の秋に柔術を始めた私は2001年の時点で約2年を経過しており「そろそろ青帯かな?」と勝手に思い込み、中井先生にも「行くなら出ちゃいなよ」とジャーニー喜多川ばりの言葉で出場を勧められ、その気になってしまい、無謀にもムンジアルで青帯チャレンジを敢行したのでした。
当時の日本での試合はすべてギ無し計量で行われていたのでギ込み計量の体重がわからずにギ込み70kgのリミットなのにギ込みで67kgと落としすぎ、さらにスコアボードも初めて見るものでまったくわけがわからなかったのを覚えています。
今でこそIF-PRO主催大会などでギ込み計量やブラジル式スコアボード採用のお陰で慣れたのでIF-PROの功績は大きいと思います。
でも試合の結果はスコアボードの見方なんて関係なくあっさりとブラボーチョークで一本負け。
目の前が真っ白になりながらぼんやりと見えていたチジューカ・テニス・クルービの高い天井が忘れられません。
まあそんな感じで3分もかからずに終わったムンジアルの青チャレでしたが、期待よりも不安の方が大きかった試合が終わって気分も晴れ晴れ、残りの日程を練習など一切せずに買い物と観光、ムンジアル観戦に費やしました。
2001年はコパドムンドとムンジアルが分裂する前の最後の年で、まだシャオリンやレオサントス、ホビーニョらノヴァウニオン勢もムンジアルに出ていました。
あとレオジーニョやヒカジーニョも出ていましたね。
でも今ほど柔術選手に詳しくなかったので、それほど熱心に見ていたわけではなかったのですが、それでもムンジアルの最終日、黒帯無差別級の決勝戦のあの異様とも思える熱気は忘れられません。
サウロとマルガリーダの2度に渡る激闘を2連勝で制したマルガリーダの勇姿が初ブラジルの強烈な思い出として脳裏に焼きついています。
また機会があったらムンジアルのことは記したいと思います。
★画像はコパカバーナのビーチ。
ビーチにはちっちゃいビキニのボニータがいっぱいです!
フリーライターの橋本です。
これから不定期でブラジルに関するニュースやコラム等を書かせていただくことになりました。よろしくお願いします。
私が初めてブラジルに行ったのは今から6年前の2001年のムンジアルでした。
当時はまだ今のように日本から選手が大挙して遠征することもなく、日本人選手全員を合計しても20人はいなかったように記憶してます。
そして現在と何よりも違うのはブラジルや柔術に関する情報がとても限られていたことでした。
現在ではブラジルで行われた大会結果やニュースがインターネットを通して瞬時に入手できますが、当時は格闘技雑誌の数ページもない柔術に関する記事をむさぼるように何度も何度も読み返していたものでした。
そしてそのまだ見ぬ柔術の地、ブラジルへの思いは募り、遂に初渡伯を決意したのです。2001年当時は本当に現地の情報が少なく、すでに当時からムンジアル遠征を何度も経験されていた中井先生にくっついて歩くので精一杯でしたが、リオの街はいたるところに柔術が溢れており、見るもの全てが新鮮でした。
現地ではリオの柔術密集地帯、コパカバーナに滞在したのですが、通りを歩けば数十メートルおきに柔術道場はあるわ、街角のジューススタンドには柔術選手のピンナ
ップやポスター、雑誌が置かれていたり、買い物にでかければ柔術関連のTシャツやグッズがあり、本当に大げさでなく街中いたるところで柔術を目にすることができ、「今、柔術の真っ只中にいる!」と一人興奮していたのを思い出します。
そして日本では見られない柔術グッズを見つけては買い漁り、帰りの荷物の運搬と、帰国してからのカードの支払いに苦労したのも今となってはいい思い出です。
でも私はムンジアルにただ観戦しに行ったのではありません。
なんと無謀にもムンジアルに出場するためでもあったのです。
99年の秋に柔術を始めた私は2001年の時点で約2年を経過しており「そろそろ青帯かな?」と勝手に思い込み、中井先生にも「行くなら出ちゃいなよ」とジャーニー喜多川ばりの言葉で出場を勧められ、その気になってしまい、無謀にもムンジアルで青帯チャレンジを敢行したのでした。
当時の日本での試合はすべてギ無し計量で行われていたのでギ込み計量の体重がわからずにギ込み70kgのリミットなのにギ込みで67kgと落としすぎ、さらにスコアボードも初めて見るものでまったくわけがわからなかったのを覚えています。
今でこそIF-PRO主催大会などでギ込み計量やブラジル式スコアボード採用のお陰で慣れたのでIF-PROの功績は大きいと思います。
でも試合の結果はスコアボードの見方なんて関係なくあっさりとブラボーチョークで一本負け。
目の前が真っ白になりながらぼんやりと見えていたチジューカ・テニス・クルービの高い天井が忘れられません。
まあそんな感じで3分もかからずに終わったムンジアルの青チャレでしたが、期待よりも不安の方が大きかった試合が終わって気分も晴れ晴れ、残りの日程を練習など一切せずに買い物と観光、ムンジアル観戦に費やしました。
2001年はコパドムンドとムンジアルが分裂する前の最後の年で、まだシャオリンやレオサントス、ホビーニョらノヴァウニオン勢もムンジアルに出ていました。
あとレオジーニョやヒカジーニョも出ていましたね。
でも今ほど柔術選手に詳しくなかったので、それほど熱心に見ていたわけではなかったのですが、それでもムンジアルの最終日、黒帯無差別級の決勝戦のあの異様とも思える熱気は忘れられません。
サウロとマルガリーダの2度に渡る激闘を2連勝で制したマルガリーダの勇姿が初ブラジルの強烈な思い出として脳裏に焼きついています。
また機会があったらムンジアルのことは記したいと思います。
★画像はコパカバーナのビーチ。
ビーチにはちっちゃいビキニのボニータがいっぱいです!