2007年08月01日
高谷コラム 「知られざるコンデ・コマの一戦・その壱」
今日は高谷聡さん(パラエストラ吉祥寺)のコラムをお届けします!
高谷さんはたびたびこのブログにも登場し、そこそこの人気を獲得しています。
そして先日の全日本でもそこそこに活躍し黒アブソでは秒殺されましたが黒レーヴィでは準優勝しました。
高谷さんは文才もあるようで、このコラムもなかなかの力作です!
興味深い内容なのでぜひ読んでみて下さい。
続きは来週掲載の予定です!
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前田光世。
1878年(明治11年)、青森県出身。
明治30年代、講道館新世代のホープ。(明治10年代の第一世代にはかの姿三四郎のモデル・西郷四郎ら。その次の前田よりやや先輩にあたる世代には、サンボの源流として伝えられる日露戦争の軍神・広瀬武夫らがいる)
ブラジリアン柔術をたしなむ者ならば、誰しもコンデ・コマ=前田光世の名前を耳にしたことがあるだろう。
カーロス・グレイシーらに技術を伝えた、ブラジリアン柔術のルーツとしての存在。(特にこれについては、ここでストーリーを述べるまでもあるまい。)
また、アマゾン開発ならびに日系移民たちへの関わりは、来年の移民100周年・日本ブラジル交流年をむかえるにあたり、今後その果たした役割が再評価されることは必至だろう。
特に柔術関係者の間で伝えられるブラジルでの彼の事跡は、その後半生での出来事である。そしてブラジルが、その終焉の地となったのである。
日本において、グレイシーやブラジリアン柔術の存在が知られる以前に前田の主な事跡として知られ、明治後期から大正年間にはリアルタイムでその雄雄しい活躍が(日本人全体が「坂の上の雲」を見上げていた時勢も相まって)若人の血を沸かせたストーリーは、いわゆる「柔道武者修行」「世界制覇」、講道館柔道を世界に宣揚せしめた海外での戦いの数々であった。
周知のエピソードもあろうが、伝えられているいくつかを列挙したい。
・1905年、ニューヨークにてブッチャーボーイなるレスラーと対戦。最後は腕十字により完勝。
・同年同地、マイヤーなるレスラーを締め落として勝利。
・1907年、ロンドンにてレスラーのユーイチに脚関節、ジャック・マードンに腕関節で勝利。
・同年同地、ジャック・ブランドンというボクサーに関節技で勝利。
・1909年、ヨーロッパのレスリング選手権(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)に出場し、本来の中量級で準決勝、他の日本人の代打で出場した重量級で決勝進出。それぞれ敗れはしたものの、おおいに健闘し、喝采を浴びた。戦歴上唯一の、道衣を着た他流試合ではない他競技への挑戦であり、海外で喫した敗戦でもある。
・日時不明、メキシコにてトートラルという、引き分けを申し出てきたレスラーの腕関節を極め勝利。
・1910年、メキシコにてレスラーのカービオと対戦。一本目は腕、二本目は脚関節で完勝。
・同年、キューバにてプロレスラーのジャコブセンと対戦し、持病のリウマチの影響で大苦戦するも、腕関節を外して勝利。
・キューバ滞在時、近隣を旅行中のプロレスリング世界チャンピオンのフランク・ゴッチ、また初の黒人ボクシング世界ヘビー級チャンピオンのジャック・ジョンソンに挑戦。が、実現には至らず。
これらの戦いの後、最終的にはブラジルへと渡るわけだが、一般に伝わる「1000試合無敗」は決して大げさではないようだ。
全ての他流試合が、自らに有利な道衣着用のものであったとはいえ、伝えられる敗戦も、上記の(本職ではない)レスリング大会でのものだけであるという。
また、多くの勝利が関節・締めによるものでることも、現在のブラジリアン柔術の姿を想起させ、そのルーツとして大いにうなずけるものであろう。
この前田光世=コンデ・コマの世界をまたにかけた雄雄しいばかりの活躍からすると意外な一戦について、「その弐」では紹介したい。
高谷さんはたびたびこのブログにも登場し、そこそこの人気を獲得しています。
そして先日の全日本でもそこそこに活躍し黒アブソでは秒殺されましたが黒レーヴィでは準優勝しました。
高谷さんは文才もあるようで、このコラムもなかなかの力作です!
興味深い内容なのでぜひ読んでみて下さい。
続きは来週掲載の予定です!
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前田光世。
1878年(明治11年)、青森県出身。
明治30年代、講道館新世代のホープ。(明治10年代の第一世代にはかの姿三四郎のモデル・西郷四郎ら。その次の前田よりやや先輩にあたる世代には、サンボの源流として伝えられる日露戦争の軍神・広瀬武夫らがいる)
ブラジリアン柔術をたしなむ者ならば、誰しもコンデ・コマ=前田光世の名前を耳にしたことがあるだろう。
カーロス・グレイシーらに技術を伝えた、ブラジリアン柔術のルーツとしての存在。(特にこれについては、ここでストーリーを述べるまでもあるまい。)
また、アマゾン開発ならびに日系移民たちへの関わりは、来年の移民100周年・日本ブラジル交流年をむかえるにあたり、今後その果たした役割が再評価されることは必至だろう。
特に柔術関係者の間で伝えられるブラジルでの彼の事跡は、その後半生での出来事である。そしてブラジルが、その終焉の地となったのである。
日本において、グレイシーやブラジリアン柔術の存在が知られる以前に前田の主な事跡として知られ、明治後期から大正年間にはリアルタイムでその雄雄しい活躍が(日本人全体が「坂の上の雲」を見上げていた時勢も相まって)若人の血を沸かせたストーリーは、いわゆる「柔道武者修行」「世界制覇」、講道館柔道を世界に宣揚せしめた海外での戦いの数々であった。
周知のエピソードもあろうが、伝えられているいくつかを列挙したい。
・1905年、ニューヨークにてブッチャーボーイなるレスラーと対戦。最後は腕十字により完勝。
・同年同地、マイヤーなるレスラーを締め落として勝利。
・1907年、ロンドンにてレスラーのユーイチに脚関節、ジャック・マードンに腕関節で勝利。
・同年同地、ジャック・ブランドンというボクサーに関節技で勝利。
・1909年、ヨーロッパのレスリング選手権(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)に出場し、本来の中量級で準決勝、他の日本人の代打で出場した重量級で決勝進出。それぞれ敗れはしたものの、おおいに健闘し、喝采を浴びた。戦歴上唯一の、道衣を着た他流試合ではない他競技への挑戦であり、海外で喫した敗戦でもある。
・日時不明、メキシコにてトートラルという、引き分けを申し出てきたレスラーの腕関節を極め勝利。
・1910年、メキシコにてレスラーのカービオと対戦。一本目は腕、二本目は脚関節で完勝。
・同年、キューバにてプロレスラーのジャコブセンと対戦し、持病のリウマチの影響で大苦戦するも、腕関節を外して勝利。
・キューバ滞在時、近隣を旅行中のプロレスリング世界チャンピオンのフランク・ゴッチ、また初の黒人ボクシング世界ヘビー級チャンピオンのジャック・ジョンソンに挑戦。が、実現には至らず。
これらの戦いの後、最終的にはブラジルへと渡るわけだが、一般に伝わる「1000試合無敗」は決して大げさではないようだ。
全ての他流試合が、自らに有利な道衣着用のものであったとはいえ、伝えられる敗戦も、上記の(本職ではない)レスリング大会でのものだけであるという。
また、多くの勝利が関節・締めによるものでることも、現在のブラジリアン柔術の姿を想起させ、そのルーツとして大いにうなずけるものであろう。
この前田光世=コンデ・コマの世界をまたにかけた雄雄しいばかりの活躍からすると意外な一戦について、「その弐」では紹介したい。