2007年08月05日
高谷コラム 「知られざるコンデ・コマの一戦・その弐」
先週の高谷コラムの続きです!
今回も充実の内容で必読です!
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「知られざるコンデ・コマの一戦・その弐」
ここに一冊の記念誌がある。
「学習院柔道120年史」、平成17年12月に出版されたものである。
これによると後のコンデ=コマ、前田光世は明治34年(1901年)4月から明治37年10月、二度と日本に戻ることのなかった宣揚柔道の旅にでる直前まで、学習院助教として柔道教育に携わっていたという。
当時は前田栄世という名であった。
柔道の創始者・嘉納治五郎師範が学習院教授をつとめていた関係で、同院では初期より柔道教育が取り入れられていた。
明治中期頃からは柔道大会と称して、学生や講道館門人による対抗戦・高段者による形の演武や掛け勝負(1人の高段者に対し、5人もしくは7人の選手が勝ち抜き戦を挑むもの)などが行われるイベントが定期的に実施された。
明治34年11月9日に行われた何回目かの柔道大会。
当時参段の前田栄世は、初段5人を相手とする掛け勝負に臨んだのだった。
ところで、いわゆる掛け勝負というものは、高段者の実力とその技の美しさを見てもらおうという極めて予定調和的なアトラクションであり、通常は高段者が見事な技で余裕を持って5人ないしは7人の挑戦者を勝ち抜くものであった。また時にはあえて全ての試合を違った決まり手で終わらせることもあったという。
余談であるが、昭和10年にはかの木村政彦も学習院柔道大会において7人掛けを披露、当然のように全勝している。
閑話休題。この前田の掛け勝負の顛末について、当時の記事を同記念誌より引用する。
「五人掛け勝負は始まり、前田氏、講道館中屈指の勇士にて、現今本院の助教たり。
一撃川口氏を背負投げ、次で末松氏を挫き、杉村氏と揉み合うこと稍久しかりも終に其功を奏して、大角氏と取組みたり。
満場闃として水を流すが如く、観者息を凝らして其活劇を見る計らざりき。
流石の勇将も敵の逆手に懸かり事茲に止まらんとはいかなるはずみにや、猿猴木より落つるも亦理りと言う可し。」
さらに記録がある。
参段 前田栄世 ○ 背負投げ 川口鹿二郎(初段)
同 ○ 不明 末松正實 (初段)
同 ○ 不明 杉村陽太郎(初段)
同 関節技 ○ 大角桂嚴 (初段)
同 不戦 八谷護 (初段)
このように、5人掛け勝負の4人目においてまさかの敗戦、それも関節をとられての負けを喫してしまったのである。
前田はこの敗戦をどう受け止めたであろうか。
アトラクションでの失敗として、苦笑いしたであろうか。
否、そうではあるまい。
更に想像を膨らませれば(多分に現代的視点であるかもしれないが)、この一戦で寝技の重要性を認識したのかも知れない。
前回ふれた、後の海外でのただ2つのレスリング大会での敗戦や、これ以前の講道館修行時代(無段時)「14、5人を勝ち抜いた後とうとう投げられた」と伝えられる敗戦などは、むしろ前田の誇り高き武勇伝として伝えられている。
猿も木から落ちると表現されるような不覚は、知られざるこの一戦(他の文献では「学習院で五人掛りを行った時は、前田は最強の五人を勝ち抜き」とされていた)だけだったかも知れない。
この数年後、前田は世界へと旅立ち、昭和16年(1941年)11月28日にブラジル・ベレンにて逝くまで、日本に戻ることはなかった。
享年63歳。
人に歴史あり。
終焉の地ブラジルをはじめ、前田の訪れたさまざまな国に知られざる記録や伝聞がまだまだ残っていることだろう。
今後それらの発掘に期待したい。
また、拙文を読んでいただいた柔術家の方々が、前田光世=コンデ・コマの事跡について興味を持っていただければ幸いである。
柔術家に限ったことではなく、人がそのアイデンティティーとするものの来歴を知ることは、とても意義深いことだと思うからだ。
筆者も編纂に参加した「学習院柔道120年史」
筆者が代表を務めるパラエストラ吉祥寺道場には
前田光世とその師・嘉納治五郎の写真が掲げられている
今回も充実の内容で必読です!
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「知られざるコンデ・コマの一戦・その弐」
ここに一冊の記念誌がある。
「学習院柔道120年史」、平成17年12月に出版されたものである。
これによると後のコンデ=コマ、前田光世は明治34年(1901年)4月から明治37年10月、二度と日本に戻ることのなかった宣揚柔道の旅にでる直前まで、学習院助教として柔道教育に携わっていたという。
当時は前田栄世という名であった。
柔道の創始者・嘉納治五郎師範が学習院教授をつとめていた関係で、同院では初期より柔道教育が取り入れられていた。
明治中期頃からは柔道大会と称して、学生や講道館門人による対抗戦・高段者による形の演武や掛け勝負(1人の高段者に対し、5人もしくは7人の選手が勝ち抜き戦を挑むもの)などが行われるイベントが定期的に実施された。
明治34年11月9日に行われた何回目かの柔道大会。
当時参段の前田栄世は、初段5人を相手とする掛け勝負に臨んだのだった。
ところで、いわゆる掛け勝負というものは、高段者の実力とその技の美しさを見てもらおうという極めて予定調和的なアトラクションであり、通常は高段者が見事な技で余裕を持って5人ないしは7人の挑戦者を勝ち抜くものであった。また時にはあえて全ての試合を違った決まり手で終わらせることもあったという。
余談であるが、昭和10年にはかの木村政彦も学習院柔道大会において7人掛けを披露、当然のように全勝している。
閑話休題。この前田の掛け勝負の顛末について、当時の記事を同記念誌より引用する。
「五人掛け勝負は始まり、前田氏、講道館中屈指の勇士にて、現今本院の助教たり。
一撃川口氏を背負投げ、次で末松氏を挫き、杉村氏と揉み合うこと稍久しかりも終に其功を奏して、大角氏と取組みたり。
満場闃として水を流すが如く、観者息を凝らして其活劇を見る計らざりき。
流石の勇将も敵の逆手に懸かり事茲に止まらんとはいかなるはずみにや、猿猴木より落つるも亦理りと言う可し。」
さらに記録がある。
参段 前田栄世 ○ 背負投げ 川口鹿二郎(初段)
同 ○ 不明 末松正實 (初段)
同 ○ 不明 杉村陽太郎(初段)
同 関節技 ○ 大角桂嚴 (初段)
同 不戦 八谷護 (初段)
このように、5人掛け勝負の4人目においてまさかの敗戦、それも関節をとられての負けを喫してしまったのである。
前田はこの敗戦をどう受け止めたであろうか。
アトラクションでの失敗として、苦笑いしたであろうか。
否、そうではあるまい。
更に想像を膨らませれば(多分に現代的視点であるかもしれないが)、この一戦で寝技の重要性を認識したのかも知れない。
前回ふれた、後の海外でのただ2つのレスリング大会での敗戦や、これ以前の講道館修行時代(無段時)「14、5人を勝ち抜いた後とうとう投げられた」と伝えられる敗戦などは、むしろ前田の誇り高き武勇伝として伝えられている。
猿も木から落ちると表現されるような不覚は、知られざるこの一戦(他の文献では「学習院で五人掛りを行った時は、前田は最強の五人を勝ち抜き」とされていた)だけだったかも知れない。
この数年後、前田は世界へと旅立ち、昭和16年(1941年)11月28日にブラジル・ベレンにて逝くまで、日本に戻ることはなかった。
享年63歳。
人に歴史あり。
終焉の地ブラジルをはじめ、前田の訪れたさまざまな国に知られざる記録や伝聞がまだまだ残っていることだろう。
今後それらの発掘に期待したい。
また、拙文を読んでいただいた柔術家の方々が、前田光世=コンデ・コマの事跡について興味を持っていただければ幸いである。
柔術家に限ったことではなく、人がそのアイデンティティーとするものの来歴を知ることは、とても意義深いことだと思うからだ。
筆者も編纂に参加した「学習院柔道120年史」
筆者が代表を務めるパラエストラ吉祥寺道場には
前田光世とその師・嘉納治五郎の写真が掲げられている