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2008年04月29日

高谷コラム「柔道界の分裂」Part.1

35694b80.jpgかつて(学生)柔道の世界において、競技を統括する連盟が2つに分裂したことがある。

昭和59年10月、柔道の総本山・講道館にて行われた世界大学柔道大会派遣選手の選考試合、観覧席の一団からシュプレヒコールが巻き起こったという。

「差別をやめろ!」

「自分らも出させろ!」

全日本柔道連盟(以下全柔連)から脱退・対立していた全日本学生柔道連盟(以下学柔連)に所属していた学生たちが起こしたものであった。

事の発端は昭和58年1月に開かれた「正力松太郎杯第一回国際学生柔道大会」をめぐってであった。

この大会、全柔連傘下団体であった学柔連が読売新聞社などのバックアップを受けて華々しく開催する大会であったが、全柔連側には開催の通知が届かなかったという。

そもそも両者には一種の確執があった(後述)のではあるが、ここでは単なる招待状の有無について、全柔連側はそれを意図的なものとし、学柔連側は単なるミスであるとする言い分の違いから、何年間にも及ぶ競技団体の分裂状態が始まったのである。

大会の数日後には学柔連が全柔連からの脱退を表明した。

直後に学柔連はその登録選手が無許可で全柔連主催の大会に出場することを制限、場合によってはかの山下泰裕選手(当時学柔連加盟、というよりその中心的役割を担っていた東海大学学生)にもペナルティーが与えられるのでは・・という事態であった。

昭和58年10月には、全柔連がその傘下団体として全日本大学柔道連盟(以下大柔連)を発足させた。

こちらもまた、登録学生に対し全柔連が承認していない大会への参加を禁ずるなど、さらに対立を深めることとなった。

両者の対立は以前から、国際柔道連盟(以下IJF)との関係においてその火種があった。

講道館のみが柔道の段位を発行することが出来ると主張する全柔連を押し切り、IJFもその権限を有するとしたのが昭和56年。

当時のIJF会長は日本の松前重義氏、学柔連の会長も務めていた。

そしてこの分裂後、IJF会長は全柔連が推すアルゼンチンの人物に改選された。

すると今度は、IJFは全柔連に参加していないいかなる柔道団体も承認しない、との声明を出した。

登録大学数では圧倒的に有利であった学柔連ではあったが、これは痛烈な痛手であったろう。

昭和59年に入ると、実際に全柔連側が学柔連主催大会に参加した選手・指導者にペナルティーを与える事態に。

この期に及んでようやく国会議員柔道連盟と日本体育協会が調停委員会を発足、紆余曲折を経て統一へ向かうにはまだ数年の時を必要とした。

ブラジリアン柔術と直接関係しない話で恐縮ではあったが、次回はまた組織が統一するまでのプロセス、またその時代に直面した筆者自身の思い出などを紹介したい。

★画像は参考文献とした昭和63年5月発行の「柔道界のデスマッチ」
いまだ解決せずとされた本書出版から一ヵ月後、柔道界は統一される。


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