2009年12月25日
高谷コラム番外編:東京国際参戦記
少し時間がたってしまったが先月の「第一回東京国際オープントーナメント」、筆者自身の試合について振り返らせていただきたい。
筆者が出場したのはマスター黒帯メイオぺサード級であった(アブソルート級は対戦相手がおらず一人優勝)。
当初申し込みしたのは筆者の年齢・体重とおりのシニア1黒帯メジオ級およびアブソルート級であったのだが、いずれも対戦相手がおらず階級変更を余儀なくされたものである。
前回のコラムに書いたとおり、今回の大会ではぜひともマスター&シニアに拘りたかったので、迷わずマスターで一人エントリーされていたメイオぺサード級を選択した。
マスター黒帯メイオぺサード級にただ一人エントリーしていたのはアルゼンチンから参戦のセバスチャン・ムニョス選手。
ホイラー・グレイシーより黒帯を授かった、グレイシーウマイタ・ブエノスアイレスの支部長とのこと。
今年のムンジアルにも出場、緒戦でロイ・ディーン選手に敗退している。
試合前、筆者はその試合をyoutubeにて確認することが出来た。
小外刈りで2ポイント、そのままの勢いでパスガードに成功し3ポイントを追加したものの、後半失速しロイ選手の小手絞りに一本負けを喫したものであった。
それにより彼が立ち技において右組であること、そしてテイクダウンの攻防において後手にならないことが勝負のポイントであることを認識したのである。
さて当日、試合が始まり思ったとおり彼は右の釣り手から組み手を作らんとしてきた。
筆者は、彼の組み手の強さを測るために本来引き手である左(筆者は右組)で襟を持ち、距離をとってみた。
ところが、一回級上であるはずである彼と筆者との間には意外と体格差がなかったこともあり、思ったほどのプレッシャーを感じなかったのである。
そこで襟を取った左を本来の袖に持ち替え、彼の釣り手を切ってみた。
立ち技において相手の組み手を切ることが可能であった場合、大いに精神的優位に立つこととなるのは多くのブラジリアン柔術競技者が実感するところであろう。
筆者はこの時点で勝利を確信した。
セバスチャン選手が引き込むことにより寝技での勝負となったが、筆者はまずパスガードのアドバンテージを取り、さらにガードからオモプラッタを経て立ち上がってきたところを押し倒し2ポイントを追加(これがポイントとなったのは意外であったが)して勝利することが出来た。
さて、この東京国際での試合を振り返って、改めてブラジリアン柔術競技における立ち技の重要性を再認識した。
時にブラジリアン柔術を「寝技」と表現する場合があるが(多くは本格的競技者でないかたによるものである)、それは必ずしも本質を言い得てはいない。
そして、マスター・シニアといったそれぞれの実情に合わせたカテゴリーに参加することが出来るというブラジリアン柔術競技の奥行きを改めて実感した。
これは指導者として、いや柔術に携わっていく者として何よりの収穫であった。
最後に、セバスチャン・ムニョス選手は非常な親日家、フレンドリーな紳士であったことを付記しておきたい。
筆者より10歳年下であった彼と、いつの日か再会したいものである。
セバスチャンと筆者。
☆高谷vsセバスチャンの試合レポはコチラから!
☆セバスチャン・ムニョスのプロフィールはコチラから!
高谷聡(こうたに・さとし)
パラエストラ吉祥寺・代表。
ブラジリアン柔術・黒帯、柔道四段。
BJJFJ公認B級審判員。
現CSF(コンバット・サブミッション・ファイティング)王者。
CSF王座は2007年6/1、ニュージーランド、オークランド、トラスト・スタジアムにて前王者、ニール・スウェイルスと戦い、これを延長戦の末にポイント判定で降し王座獲得。
王座獲得の後、2年ぶりに王座防衛戦を行い、激戦の末に王座防衛を果たす。(2009年5月)
★CSF王座防衛戦の様子はコチラから!
★CSF王座獲得のの詳細は2007年06月01日のこのブログのニュージーランド編を参照のこと。
☆ニュージーランド編はコチラ、画像はコチラ!
★著者経歴
・昭和45年2月11日生まれ、39才(独身)
・昭和57年、12才で武道を始める。
・昭和59年、合気道初段。
・昭和61年、16才で柔道に転じ以降、高校・大学・実業団にて選手として出場。
・現在は母校の柔道部監督を務める。
・平成7年、柔道4段取得。
・実業団所属時代、鈴木道場サンボクラスに入門、初段を取得。
・平成9年、鈴木道場サンボクラスに出稽古の中井祐樹先生と知り合う。
・同年末に開設されたパラエストラ東京(当時パレストラ東京)に入門、ブラジリアン柔術を始める。
・平成13年、パラエストラ吉祥寺を設立。
・平成17年、ブラジリアン柔術の黒帯を取得。
・好きな女優は池脇千鶴、おニャン子クラブでは白石麻子が好きだった。
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筆者が出場したのはマスター黒帯メイオぺサード級であった(アブソルート級は対戦相手がおらず一人優勝)。
当初申し込みしたのは筆者の年齢・体重とおりのシニア1黒帯メジオ級およびアブソルート級であったのだが、いずれも対戦相手がおらず階級変更を余儀なくされたものである。
前回のコラムに書いたとおり、今回の大会ではぜひともマスター&シニアに拘りたかったので、迷わずマスターで一人エントリーされていたメイオぺサード級を選択した。
マスター黒帯メイオぺサード級にただ一人エントリーしていたのはアルゼンチンから参戦のセバスチャン・ムニョス選手。
ホイラー・グレイシーより黒帯を授かった、グレイシーウマイタ・ブエノスアイレスの支部長とのこと。
今年のムンジアルにも出場、緒戦でロイ・ディーン選手に敗退している。
試合前、筆者はその試合をyoutubeにて確認することが出来た。
小外刈りで2ポイント、そのままの勢いでパスガードに成功し3ポイントを追加したものの、後半失速しロイ選手の小手絞りに一本負けを喫したものであった。
それにより彼が立ち技において右組であること、そしてテイクダウンの攻防において後手にならないことが勝負のポイントであることを認識したのである。
さて当日、試合が始まり思ったとおり彼は右の釣り手から組み手を作らんとしてきた。
筆者は、彼の組み手の強さを測るために本来引き手である左(筆者は右組)で襟を持ち、距離をとってみた。
ところが、一回級上であるはずである彼と筆者との間には意外と体格差がなかったこともあり、思ったほどのプレッシャーを感じなかったのである。
そこで襟を取った左を本来の袖に持ち替え、彼の釣り手を切ってみた。
立ち技において相手の組み手を切ることが可能であった場合、大いに精神的優位に立つこととなるのは多くのブラジリアン柔術競技者が実感するところであろう。
筆者はこの時点で勝利を確信した。
セバスチャン選手が引き込むことにより寝技での勝負となったが、筆者はまずパスガードのアドバンテージを取り、さらにガードからオモプラッタを経て立ち上がってきたところを押し倒し2ポイントを追加(これがポイントとなったのは意外であったが)して勝利することが出来た。
さて、この東京国際での試合を振り返って、改めてブラジリアン柔術競技における立ち技の重要性を再認識した。
時にブラジリアン柔術を「寝技」と表現する場合があるが(多くは本格的競技者でないかたによるものである)、それは必ずしも本質を言い得てはいない。
そして、マスター・シニアといったそれぞれの実情に合わせたカテゴリーに参加することが出来るというブラジリアン柔術競技の奥行きを改めて実感した。
これは指導者として、いや柔術に携わっていく者として何よりの収穫であった。
最後に、セバスチャン・ムニョス選手は非常な親日家、フレンドリーな紳士であったことを付記しておきたい。
筆者より10歳年下であった彼と、いつの日か再会したいものである。
セバスチャンと筆者。
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高谷聡(こうたに・さとし)
パラエストラ吉祥寺・代表。
ブラジリアン柔術・黒帯、柔道四段。
BJJFJ公認B級審判員。
現CSF(コンバット・サブミッション・ファイティング)王者。
CSF王座は2007年6/1、ニュージーランド、オークランド、トラスト・スタジアムにて前王者、ニール・スウェイルスと戦い、これを延長戦の末にポイント判定で降し王座獲得。
王座獲得の後、2年ぶりに王座防衛戦を行い、激戦の末に王座防衛を果たす。(2009年5月)
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★CSF王座獲得のの詳細は2007年06月01日のこのブログのニュージーランド編を参照のこと。
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★著者経歴
・昭和45年2月11日生まれ、39才(独身)
・昭和57年、12才で武道を始める。
・昭和59年、合気道初段。
・昭和61年、16才で柔道に転じ以降、高校・大学・実業団にて選手として出場。
・現在は母校の柔道部監督を務める。
・平成7年、柔道4段取得。
・実業団所属時代、鈴木道場サンボクラスに入門、初段を取得。
・平成9年、鈴木道場サンボクラスに出稽古の中井祐樹先生と知り合う。
・同年末に開設されたパラエストラ東京(当時パレストラ東京)に入門、ブラジリアン柔術を始める。
・平成13年、パラエストラ吉祥寺を設立。
・平成17年、ブラジリアン柔術の黒帯を取得。
・好きな女優は池脇千鶴、おニャン子クラブでは白石麻子が好きだった。
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