2013年07月14日
高谷コラム:「昭和62年・吉田秀彦」
先月、「全日本実業団体対抗大会」第三部にて、十数年ぶりに柔道の試合に出場した吉田秀彦。
齢43歳、筆者とは同学年である。
ブラジリアン柔術家にとっては2002年のホイス・グレイシー戦の印象が強い。
また、その後に数々のMMAファイトを闘った選手としても高名だ。
柔道家たちにとっては、何といってもバルセロナ五輪78キロ級で金メダルを獲得した際の得意技・内股のシーンが鮮烈であろう。
齢43歳、筆者とは同学年である。
ブラジリアン柔術家にとっては2002年のホイス・グレイシー戦の印象が強い。
また、その後に数々のMMAファイトを闘った選手としても高名だ。
柔道家たちにとっては、何といってもバルセロナ五輪78キロ級で金メダルを獲得した際の得意技・内股のシーンが鮮烈であろう。
学生選手権で4連覇を果たした圧倒的な強さや、敗れはしたものの金野潤との全日本選手権決勝も記憶に残る。
が、筆者にとっては高校3年時・昭和62年の一年間無敗を誇った、神がかった勝負強さが忘れられない。
昭和62年・春の高校選手権や国際高校選手権などでは、圧倒的な内股のキレで一本の山を築いた世田谷学園高校の吉田であったが、必ずしも楽勝の連続ではなかった。
関東大会個人戦では東海大相模高校のエース・佐藤選手に「技あり」一個ずつを取り合って、薄氷の判定勝ちであった。
また、インターハイ個人戦決勝では東海大第五高校の新鋭にして後に「中村三兄弟」として一世を風靡した長男の佳央を相手にポイントを奪うことが出来ず、これも判定での勝利であった。
秋の国体では宮崎県の選手に返され「技あり」を献上、抑えこんでの逆転勝利といったこともあった。
そういった中で、昭和62年の吉田秀彦ベストバウトとも思えるのが、夏の金鷲旗決勝での東海大相模戦、これまた佐藤との大将同士の対戦。
金鷲旗は5人による伝統の勝ち抜き戦、この世田谷学園VS東海大相模は抜きつ抜かれつの大接戦にて、大将戦にもつれ込んだ。
序盤は佐藤が足取りなどで怒涛の攻撃、吉田は腹ばいで逃れるので精一杯であった。
吉田は寝技に活路を見いだし、今で言うオモプラッタを駆使して反撃するも、極めるには至らず。
やや佐藤有利の空気が流れる終了寸前、突如として炸裂した吉田の内股に佐藤ゆっくりと回転し「技あり」、吉田そして世田谷学園の勝利となる。
昭和62年・吉田秀彦の充実を集約するかのような、ドラマティックな一戦であった。
その後は柔道・他流試合・MMAにて周知のキャリアを築いた吉田。
特に、最近はあまり省みられることが少なくなったが、ホイスとの道衣を着た一戦は「木村VSエリオ」の再現とも言われた興奮の闘いであった。
もっと歴史の中で語られてよい試合だと思う。
紆余曲折を経て、柔道の舞台に戻ってきた吉田秀彦。
底辺ながら同学年として時代を生きた筆者にとって、誇りに思える存在である。
(文中敬称略)
1昭和62年金鷲旗高校柔道選手権大会・決勝大将戦。
世田谷学園・吉田秀彦80キロ、対する東海大相模・佐藤は130キロ
2中盤までは佐藤が大内刈りや足取りで優勢。
3中盤、吉田も「オモプラッタ」を駆使して逆転を狙う。
4終了直前に炸裂した吉田の内股で「技あり」。
高谷聡(こうたに・さとし)
パラエストラ吉祥寺・代表。
ブラジリアン柔術・黒帯、柔道四段。
JBJJF公認A級審判員。
現CSF(コンバット・サブミッション・ファイティング)王者。
CSF王座は2007年6/1、ニュージーランド、オークランド、トラスト・スタジアムにて前王者、ニール・スウェイルスと戦い、これを延長戦の末にポイント判定で降し王座獲得。
王座獲得の後、2年ぶりに王座防衛戦を行い、激戦の末に王座防衛を果たす。(2009年5月)
★CSF王座防衛戦の様子はコチラから!
★CSF王座獲得のの詳細は2007年06月01日のこのブログのニュージーランド編を参照のこと。
☆ニュージーランド編はコチラ、画像はコチラ!
★著者経歴
・昭和45年2月11日生まれ、43才(独身)
・昭和57年、12才で武道を始める。
・昭和59年、合気道初段。
・昭和61年、16才で柔道に転じ以降、高校・大学・実業団にて選手として出場。
・現在は母校の柔道部監督を務める。
・平成7年、柔道4段取得。
・実業団所属時代、鈴木道場サンボクラスに入門、初段を取得。
・平成9年、鈴木道場サンボクラスに出稽古の中井祐樹先生と知り合う。
・同年末に開設されたパラエストラ東京(当時パレストラ東京)に入門、ブラジリアン柔術を始める。
・平成13年、パラエストラ吉祥寺を設立。
・平成17年、ブラジリアン柔術の黒帯を取得。
・好きな女優は池脇千鶴、おニャン子クラブでは白石麻子が好きだった。
★高谷さんの人気コラムシリーズはコチラから、ブログはコチラから!
【今日が誕生日の柔術家】レアンドロ・クサノ(31)、アルバート・クレーン(37)、ホーレス・グレイシー(35)、クスチアーノ・カミニシ
©Bull Terrier Fight Gear
が、筆者にとっては高校3年時・昭和62年の一年間無敗を誇った、神がかった勝負強さが忘れられない。
昭和62年・春の高校選手権や国際高校選手権などでは、圧倒的な内股のキレで一本の山を築いた世田谷学園高校の吉田であったが、必ずしも楽勝の連続ではなかった。
関東大会個人戦では東海大相模高校のエース・佐藤選手に「技あり」一個ずつを取り合って、薄氷の判定勝ちであった。
また、インターハイ個人戦決勝では東海大第五高校の新鋭にして後に「中村三兄弟」として一世を風靡した長男の佳央を相手にポイントを奪うことが出来ず、これも判定での勝利であった。
秋の国体では宮崎県の選手に返され「技あり」を献上、抑えこんでの逆転勝利といったこともあった。
そういった中で、昭和62年の吉田秀彦ベストバウトとも思えるのが、夏の金鷲旗決勝での東海大相模戦、これまた佐藤との大将同士の対戦。
金鷲旗は5人による伝統の勝ち抜き戦、この世田谷学園VS東海大相模は抜きつ抜かれつの大接戦にて、大将戦にもつれ込んだ。
序盤は佐藤が足取りなどで怒涛の攻撃、吉田は腹ばいで逃れるので精一杯であった。
吉田は寝技に活路を見いだし、今で言うオモプラッタを駆使して反撃するも、極めるには至らず。
やや佐藤有利の空気が流れる終了寸前、突如として炸裂した吉田の内股に佐藤ゆっくりと回転し「技あり」、吉田そして世田谷学園の勝利となる。
昭和62年・吉田秀彦の充実を集約するかのような、ドラマティックな一戦であった。
その後は柔道・他流試合・MMAにて周知のキャリアを築いた吉田。
特に、最近はあまり省みられることが少なくなったが、ホイスとの道衣を着た一戦は「木村VSエリオ」の再現とも言われた興奮の闘いであった。
もっと歴史の中で語られてよい試合だと思う。
紆余曲折を経て、柔道の舞台に戻ってきた吉田秀彦。
底辺ながら同学年として時代を生きた筆者にとって、誇りに思える存在である。
(文中敬称略)
1昭和62年金鷲旗高校柔道選手権大会・決勝大将戦。
世田谷学園・吉田秀彦80キロ、対する東海大相模・佐藤は130キロ
2中盤までは佐藤が大内刈りや足取りで優勢。
3中盤、吉田も「オモプラッタ」を駆使して逆転を狙う。
4終了直前に炸裂した吉田の内股で「技あり」。
高谷聡(こうたに・さとし)
パラエストラ吉祥寺・代表。
ブラジリアン柔術・黒帯、柔道四段。
JBJJF公認A級審判員。
現CSF(コンバット・サブミッション・ファイティング)王者。
CSF王座は2007年6/1、ニュージーランド、オークランド、トラスト・スタジアムにて前王者、ニール・スウェイルスと戦い、これを延長戦の末にポイント判定で降し王座獲得。
王座獲得の後、2年ぶりに王座防衛戦を行い、激戦の末に王座防衛を果たす。(2009年5月)
★CSF王座防衛戦の様子はコチラから!
★CSF王座獲得のの詳細は2007年06月01日のこのブログのニュージーランド編を参照のこと。
☆ニュージーランド編はコチラ、画像はコチラ!
★著者経歴
・昭和45年2月11日生まれ、43才(独身)
・昭和57年、12才で武道を始める。
・昭和59年、合気道初段。
・昭和61年、16才で柔道に転じ以降、高校・大学・実業団にて選手として出場。
・現在は母校の柔道部監督を務める。
・平成7年、柔道4段取得。
・実業団所属時代、鈴木道場サンボクラスに入門、初段を取得。
・平成9年、鈴木道場サンボクラスに出稽古の中井祐樹先生と知り合う。
・同年末に開設されたパラエストラ東京(当時パレストラ東京)に入門、ブラジリアン柔術を始める。
・平成13年、パラエストラ吉祥寺を設立。
・平成17年、ブラジリアン柔術の黒帯を取得。
・好きな女優は池脇千鶴、おニャン子クラブでは白石麻子が好きだった。
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